プロフィール
ギリシャの海運王として名を馳せる一方、競馬界でも有数のオーナーブリーダーとなって影響力を発揮したスタヴロス・ニアルコス氏。その礎となったヌレイエフや娘のミエスクなど多くの名馬を所有したが、馬主生活の最後を飾るように華やかな活躍を披露したのがスピニングワールドだ。
スピニングワールドはニアルコス氏の秘蔵っ子ともいうべきヌレイエフを父に持ち、アーモンドアイやエルグランセニョール、ラグズトゥリッチズ、リダウツチョイスらを輩出したベストインショーに遡る名牝系の出身。ニアルコス氏所有のフラックスマンホールディングスがアメリカで生産し、当初はヌレイエフやミエスクらを育てたフランスのF.ブータン調教師に預けられるも、ブータン師がデビューを待たずに病死したことにより、J.ピース厩舎に移って競走生活を送ることになった。
2歳の10月末にデビューしたスピニングワールドは2連勝で重賞制覇を飾るが、この2戦目だけが距離1800mで鞍上も若き日のO.ペリエだった。それ以外は引退するまでマイル戦のみに出走し、手綱も自身と同じアメリカ出身のC.アスムッセンに託された。
スピニングワールドは無傷で3歳を迎えたものの、始動戦の直前にニアルコス氏の死という悲報が届けられる。競馬事業は一族が継承することになったが、動揺の中で臨んだフォンテンブロー賞は3着で初黒星。この時、先着を許したアシュカラニには次戦の仏2000ギニーでも3/4馬身及ばず連敗し、結果的に4度の直接対決で1度も先着できない関係となる。それでも、スピニングワールドは愛2000ギニーで巻き返し、フランス調教馬として初制覇を飾ると同時に自身にとっても初のG1タイトルを手にした。
その後、英・愛・仏の2000ギニー馬が顔をそろえたセントジェームズパレスSで生涯最悪の6着に終わるが、次戦のジャックルマロワ賞では2度目のG1制覇。ニアルコス家のフレネイ・ル・ビュファール牧場が1986年からスポンサーを務め、ミエスクやヘクタープロテクター、イーストオブザムーンといった所有馬が制してきたゆかりのレースで偉大な先達たちの仲間入りを果たす。続くムーランドロンシャン賞とBCマイルで2着に敗れたが、3歳シーズンをG1レース2勝、2着3回と上々の戦績で終えた。
4歳も現役を続けたスピニングワールドは初戦のミュゲ賞を最後方から際どく差し切るも、1番人気で迎えられたロッキンジSでは勝ち馬に6馬身余り離されて4着に敗れてしまう。精彩を欠いた内容からピース師はスピニングワールドに休養を与えると功を奏し、復帰戦のジャックルマロワ賞を2馬身差で連覇。さらに前年は2着に敗れたムーランドロンシャン賞で3馬身差、BCマイルもレースレコードの2馬身差と他馬を寄せつけず、鮮やかにG1レース3連勝を飾って現役に別れを告げた。
引退後はクールモアグループがアメリカに所有するアッシュフォードスタッドで種牡馬生活をスタートさせ、オセアニアへのシャトル派遣や日本へのリース供用(2000年)、さらにはアイルランドへの移動など世界中で繁殖牝馬を集めた。オセアニアで一定の成果を挙げた以外、期待に応えるような成功を得られなかったが、日本に残した牝馬のオメガスピリットは後にオークス馬ヌーヴォレコルトの母となった。