プロフィール
日本馬を世界水準に押し上げた立役者として、サンデーサイレンスの偉大さは誰もが認めるところだが、同時代に日本で種牡馬生活を送り、ブライアンズタイムとともに御三家と称されたトニービンの存在も忘れる訳にはいかないだろう。サンデーサイレンスと同様、地味な出自から頂点に上り詰め、自らと競馬界の未来を切り拓いた立身出世の体現者だ。
トニービンはアイルランドで生まれ、市場取引価格がわずか3000ギニー(当時の為替レートで100万円ほど)という安値で購買された。イタリア人実業家のL.ガウチが所有する牧場と妻が名義上のオーナーとなり、L.カミーチ調教師に預けられて競走生活を送っていく。
近年は存続の危機にさらされているイタリアの競馬だが、ノーザンダンサーの祖父ネアルコや16戦無敗の凱旋門賞馬リボー、両馬の生産者で歴史的馬産家のF.テシオら、近代競馬に不可欠なピースを要所で提供してきた。そうした土壌にあって、カミーチ師は第二次大戦の前から競馬界に身を置き、いとこもリボーの主戦騎手という競馬一家の出身だった。
トニービンはいわゆる晩生のタイプで、3歳までは伊ダービー4着など計4戦したG1を含め重賞未勝利。しかし、4歳を迎えて2戦目に重賞初制覇を飾ると、続くイタリア共和国大統領賞でG1の壁も突破し、さらにミラノ大賞まで4連勝を決める。一気にイタリアのトップホースとなって国外へ飛び出し、サンクルー大賞、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドS、凱旋門賞と英仏で3戦したG1は勝利に至らなかったが、凱旋門賞ではレコード勝ちしたトランポリノの2着に善戦するなど、実力が欧州全域で通用する手応えを得た。
そして、5歳でイタリア共和国大統領賞とミラノ大賞をともに連覇すると、キングジョージに再挑戦して前年の5着から3着に前進。ひと息入れて地元のフェデリコテシオ賞から連闘という異例の臨戦で凱旋門賞へ駒を進める。カミーチ師が「トニービンの調教相手を務められる馬がいなかった」と理由を明かす一方、英国から出向いた騎手のJ.リードも好調を感じ取っていた。凱旋門賞のリードには主戦を務めるV.オブライエン厩舎からダークロモンドが用意されていたが、師の許しを得てトニービンに騎乗。すると、トニービンはキングジョージで屈したムトトの追撃をクビ差振り切り、イタリア調教馬として27年ぶりの凱旋門賞制覇を果たした。
その後、トニービンはジャパンCに参戦したものの、レース中の骨折もあり5着に敗れて引退。電撃交渉が実って日本で種牡馬入りすることになる。100万円ほどで購買された名もない馬の価値は、1000倍にも跳ね上がっていた。
予断だが、トニービンを手放したガウチ氏は、その資金を元手にサッカークラブのペルージャを買収したとされ、日本人選手の中田英寿と契約して成功に導いた。また、ガウチ氏はドクターデヴィアスも所有し、2歳でデューハーストSを制すと売却。同馬はその後に英ダービーを勝って日本で種牡馬となるなど、日本とは何かと縁のある人物だった。
種牡馬トニービンは1994年のリーディングサイアーに輝いたのをはじめ、2頭のダービー馬(ウイニングチケットとジャングルポケット)、3頭のオークス馬(ベガ、エアグルーヴ、レディパステル)ら9頭のG1ホースを輩出。エアグルーヴはルーラーシップ、G3を2勝したアイリッシュダンスはハーツクライの母となるなど、今日の日本競馬界に不可欠なDNAを残した。