プロフィール
英国の近代競馬において最強とも称されるブリガディアジェラードをはじめ、数々の名馬を育て上げたD.ハーン調教師。栄光のキャリアが不慮の事故により暗転すると、その窮地を救うかのように現れたのがナシュワンだった。
1962年以降に英チャンピオントレーナーに輝くこと4回、ブリガディアジェラードを擁した1970年代初頭、トロイ(1979年)とヘンビット(1980年)での英ダービー連覇など華々しく活躍したハーン師だが、1984年末に狩猟中の事故によって下半身不随となり、車椅子生活の身となった。1988年に心臓手術を受けると、翌春には女王エリザベス2世のレーシングマネージャーにより、1963年から任されてきた管理調教師の役を解かれ、新聞の1面を飾る騒動に発展する。そうした激動の最中にナシュワンはデビューした。
ナシュワンは1988年8月からデビュー2連勝で2歳シーズンを終えた。重賞には未出走でクラシック戦線の中心に置かれる存在ではなかったが、英2000ギニー直前の調教で古馬を子ども扱いすると、1番人気へと評価が急上昇。後の大種牡馬デインヒルらを一蹴して無敗のクラシックホースとなる。続く英ダービーでは5馬身差の快勝で圧倒的人気に応え、1970年のニジンスキー以来となる二冠を達成した。
ナシュワンは返す刀でエクリプスSに参戦すると、2着に5馬身差をつけて古馬との初対戦も難なくクリアしてみせる。ただ、大きなリードで直線に先んじた2着馬を、直線半ばで片づける圧勝劇にもかかわらず、ナシュワンを生涯最高の馬と称す名手W.カーソンは早仕掛けだったと振り返っている。次戦のキングジョージ6世&クイーンエリザベスDSでは一転してじっくり構えると、今度はダービーで7馬身差をつけたカコイーシーズにクビ差に迫られてしまう。それでも、英二冠からエクリプスS、キングジョージを3歳で制す史上唯一の偉業となった。
その後は19年ぶりの三冠馬誕生へ期待が高まる中で、英セントレジャーではなく凱旋門賞を目標に定めるも、前哨戦のニエル賞で初体験の重馬場に持ち味のスピードを封じられ、ゴールデンフェザントに2馬身差をつけられて初黒星。そのまま凱旋門賞に挑むことなく引退して種牡馬入りした。
自身に来日経験のないナシュワンだが、日本とは不思議な縁がある。キングジョージで接戦を演じるなど3度戦ったカコイーシーズは翌年のジャパンCに参戦して3着、ニエル賞で生涯唯一の黒星を喫したゴールデンフェザントも2年後のジャパンCを圧巻の末脚で制し、両馬は当時の日本最強馬たちに先着。引退後に日本で種牡馬入りした。
また、ナシュワンは種牡馬としても成功を収め、産駒のスウェインがキングジョージで父子制覇、バゴは凱旋門賞などを勝った。バゴは日本で種牡馬となり、クロノジェネシス(宝塚記念など)やビッグウィーク(菊花賞)、ステラヴェローチェ(サウジアラビアロイヤルC)を輩出している。
さらにはナシュワン自身がディープインパクトの近親という特長もある。ディープインパクトの曾祖母ハイクレアはエリザベス2世の生産・所有で英1000ギニーなどを勝った名牝だが、同馬を管理したのはハーン師。ハイクレアにバステッドを交配し、1977年に生まれたバーグクレアはディープインパクトの祖母、2年後に生まれた全妹ハイツオブファッションはナシュワンの母となった。
ナシュワン引退後のハーン師は、その馬主だったハムダン殿下の支援により厩舎を構え、名スプリンターのデイジュールを育て上げるなど恩に報いて1997年に調教師を引退した。そして、ハーン師が2002年の5月に81歳で亡くなると、その2か月後にナシュワンも脚の手術が元で合併症に襲われ、後を追うように天へ駆けていった。