プロフィール
スワーヴダンサーは1990年代初頭に9戦のキャリアを送り、1999年末に種牡馬としてシャトル派遣されていた豪州で落雷により短い生涯を終えた。そのせいか、現役時代の実績に比して日本での知名度がもう一つ伴っていない感もあるが、レーティング136は日本調教馬で史上最高のエルコンドルパサー(134)を上回っている。
スワーヴダンサーの主戦騎手を務めたC.アスムッセンは、大オーナーのニアルコス家の後押しを受けてリーディングを獲得するなど、アメリカ人ながらフランスで華々しく活躍した。そうした数々の名馬を知る凄腕の乗り役をして生涯最高と言わしめたのがスワーヴダンサーで、アスムッセンの父親がキーンランド9月の当歳市場で馬主のシャルー氏のために4万5000ドルの安価で落札したことが縁となった。その冬にフランスから里帰りしていたアスムッセンは、父が経営するトレーニングセンターで馴致訓練を受けるスワーヴダンサーを目にしていたという。
フランスへ送られて2歳11月の初陣が3着だったスワーヴダンサーは、5か月後の3歳初戦を8馬身差の快勝、重賞初挑戦のグレフュール賞も4馬身差の楽勝で頭角を現した。その名の通り雄大な完歩で雲の上を漂うが如く走っているように見える一方、怒とうの加速でいつの間にか後方から先団に追いつき、突き抜けるスタイルを確立していくスワーヴダンサーだが、4戦目のリュパン賞では2番手から抜け出した相手を捕らえ切れずに初黒星を喫してしまう。
しかし、続く仏ダービーでは後方から直線半ばで先頭に立ち、2着に4馬身差をつける圧勝劇。文句なしの形でフランス3歳馬の頂点を極め、愛ダービーで英ダービー馬ジェネラスとの頂上対決に臨んだ。下馬評は一騎打ち。先行策のジェネラスに対してスワーヴダンサーは指定席の後方に収まり、直線入口にかけて瞬く間に並びかけた。先に鞍上がステッキを抜いたのはジェネラス。満を持して追い出されたスワーヴダンサーに戦況有利と思われたが、ジェネラスがしぶとく末脚を伸ばす一方、スワーヴダンサーは一瞬だけ伸びかけて逆に突き放されてしまう。この一戦は落馬負傷のアスムッセンに代わり、W.スウィンバーンが手綱を取っていたとはいえ、どちらも名手。生涯で唯一の完敗に終わった。
夏場を休養に充てたスワーヴダンサーは9月に再びアイルランドへ渡り、愛チャンピオンSを4馬身差の圧勝で面目躍如。次戦の凱旋門賞でジェネラスへの雪辱に挑んだ。愛ダービー後にキングジョージも制し、ますます評価を高めていた宿敵にやや水をあけられて2番人気に甘んじたスワーヴダンサーだが、愛ダービーと同様に先行するジェネラスを後方から追撃。直線入口で余力を失っていく相手を横目に馬なりで先頭をうかがい、爆発的に突き抜けてリベンジに成功した。ちなみに、2馬身差の2着マジックナイトは次戦のジャパンCでも2着。日本の大将格だったメジロマックイーン(4着)には3馬身先着している。
凱旋門賞が決め手となり、この年に創設されたカルティエ賞ではスワーヴダンサーが最優秀3歳牡馬に選出。その一方、愛ダービーの内容によりレーティングではジェネラスが1ポンド上回り、両雄を立てるような評価となった。その後、スワーヴダンサーは4歳も現役を続けたものの初戦のガネー賞で負傷。凱旋門賞連覇を目指すも傷が癒えないまま9月に引退が決まった。そのガネー賞も出走できなかった凱旋門賞も、勝ったのは仏ダービーで2着にちぎり捨てたスボティカだった。
種牡馬としての活動期間が短かった不運もあり、自身の父系を発展させることは叶わなかったスワーヴダンサーだが、その影響力は母系から現在に伝わっている。母の父がスワーヴダンサーの種牡馬メイクビリーヴは、仏ダービーやサウジC制覇で芝もダートもこなす万能ホースのミシュリフを輩出。未来へ可能性をつないでいる。