プロフィール
2023年1月9日、女性スポーツ記者の草分けと称されるバージニア・クラフト・ペイソンが米ケンタッキー州の牧場で92年の天寿を全うした。彼女は『Sports Illustrated』誌が1954年の創刊時に唯一の女性記者としてキャリアをスタートし、ニューヨーク・メッツ(MLB)のオーナーでもあったチャールズ・シップマン・ペイソンと47歳で再婚。二人でサラブレッド事業に進出して成功を収めると、夫の死から4年後の1989年、代表作ともいうべきセントジョヴァイトを生産した。
セントジョヴァイトの6歳上の全兄はG2ジムダンディSなどアメリカで重賞を6勝し、父プレザントコロニーは1981年にケンタッキーダービーとプリークネスSの二冠を含むG1レース4勝。ペイソン夫人もカードナスクラを擁して1984年のトラヴァーズSを制すなどアメリカで成功していたが、2歳馬の故障率を憂慮して欧州へ所有馬を送るようになり、そうした中にセントジョヴァイトも含まれていた。
アイルランドのJ.ボルジャー調教師に預けられたセントジョヴァイトは、2歳8月のデビュー戦を5馬身差で圧勝すると、2戦目のG3アングルシーSでは後に種牡馬として成功するエルプラドをクビ差で下し重賞初制覇。3戦目のG3フューチュリティSもクビ差でものにして無傷の3連勝とする。そして、4戦目にはフランスに遠征してG1グランクリテリウムに挑戦し、そこでは“ワンダーホース”アラジに4馬身近い差をつけられて初黒星を喫するも、アイルランドの2歳チャンピオンに選出された。
半年の休養から迎えた3歳は7ハロンのG3グラッドネスSで始動したが、単勝1.72倍の圧倒的人気を裏切り4着と不覚を取ってしまう。ただ、デビュー3連勝の良馬場から道悪で連敗と適性は明らかになり、馬場が持ち直した次戦のG3愛ダービートライアルSでは単勝1.47倍とさらに人気を集めた上で巻き返しに成功する。
これで英ダービーへ弾みをつけたはずのセントジョヴァイトだが、大一番を前にヒザの負傷が発覚。出走にはこぎつけたものの、好位で並走していたケンタッキーダービー帰りのドクターデヴィアスに2馬身差の完敗に終わる。ちなみに、この時のセントジョヴァイトは2番枠で、英ダービーでスターティングゲートが導入された1967年以降、2022年まで1頭も勝ち馬が誕生していない。また後年、ボルジャー師は「彼には右回りの良馬場が必要で、そのような環境で負かすのは不可能だった」と振り返っている。
それから3週余りの愛ダービーは右回りのカラ競馬場に舞台が変わり、英ダービーのうっ憤を晴らすかのように生涯最高のパフォーマンスを披露する。セントジョヴァイトは僚馬を行かせて離れた2番手を追走し、ドクターデヴィアスのマークを受けながら早めに進出を開始。最終コーナーで一騎打ちの形に持ち込むと、直線ではレースレコードの12馬身差を開いてドクターデヴィアスに雪辱を果たす。走破タイムの2分25秒60は30年前の記録を3秒2も更新するトラックレコードで、いまだに破られていない2つの大記録を残した。
この後、休養を与えたいボルジャー師と続戦を望むペイソン夫人との間で意見の相違があったものの、オーナーの意向を汲んでキングジョージ6世&クイーンエリザベスDSの参戦が決定する。その一方で、騎乗停止中のC.ロシュの代役にアメリカ人のS.コーセンを求めるオーナーに対し、アイルランド人に拘るボルジャー師の希望通りS.クレインが起用された。そして、堅良(Good to Firm)とセントジョヴァイトに絶好の馬場で行われたレースでは、初対戦の古馬たちに6馬身差をつけて圧勝。2010年にレースレコードの11馬身差で制したハービンジャーと並び、自身最高のレーティング135と評価された。
セントジョヴァイトは1か月半後に左回りのアイリッシュチャンピオンSでドクターデヴィアスに短アタマ差の惜敗、続く凱旋門賞は道悪に泣き4着と連敗でシーズンを終えることになったものの、1992年の欧州年度代表馬に選出された。この年に欧米間を11往復もしたというペイソン夫人は、アメリカで4歳シーズンを送らせるべくカナダのR.アトフィールド厩舎へ移籍させたが、セントジョヴァイトは初戦を迎える前に腱を傷めて引退することになった。
セントジョヴァイトはペイソン夫人の所有するペイソン・スタッドで種牡馬入りし、2006年にはアイルランドのグリーンツリー・スタッドに移ったが、代表産駒と呼べるほどの大物を残せないまま2016年に27歳でこの世を去った。