プロフィール
アレフランスは通算21戦でG1レース8勝を含む13勝を挙げ、フランスの競馬史で最強と称される名牝。13勝のうち12勝を凱旋門賞などが行われるロンシャン競馬場で挙げたことから「ロンシャンの女王」の異名を取ることでも知られる。
日本語で「行け、フランス」の意味を持つ馬名の通り、フランスを代表する名馬として活躍したアレフランスだが、同世代には何かと比較される1頭の牝馬がいた。後に世界へ羽ばたいていくダーリアがその馬で、両馬は直接対決の全8戦でアレフランスが先着し、そのうち6戦はアレフランスが1着と、対戦成績上は勝負づけを済ませた関係と言える。
ただ、それだけで決まらないのが競走馬の価値。両馬のキャラクターは競走から繁殖成績、外見に至るまで対照的だった。直接対決では完勝のアレフランスだが、ほとんどが得意の道悪で対戦しており、瞬発力を生かすタイプのダーリアには不利な条件だった。また、アレフランスは国内、とりわけロンシャン競馬場で無敵を誇った一方、ダーリアが名を上げた国外では1勝もできなかった。そして、外見もアレフランスが男勝りで不格好な躯体をしていたのに対し、ダーリアは気品のある美しい姿をしていたという。
両馬の間にはデビュー前から因縁があった。アレフランスを所有した画商で富豪のD.ウィルデンシュタイン氏に、牧場の庭先で購買を勧めたのはM.ジルベール調教師だが、後にウィルデンシュタイン氏との関係を解消し、N.B.ハント氏に請われてダーリアを管理することになる。アレフランスの新たな調教師にはA.クリムシャが指名され、1971年からウィルデンシュタイン氏の主戦騎手となった名手Y.サンマルタンが引退まで鞍上を任された。
アレフランスは1970年の5月24日と競走馬としては遅い生まれだったが、クリテリウムデプーリッシュ(現マルセルブーサック賞)など2戦2勝でフランスの2歳女王に輝くと、恵まれた馬格と成長力で3歳には一段と充実。ダーリアとの初対戦となった仏1000ギニーと仏オークス、そして秋のヴェルメイユ賞を制してフランスの牝馬三冠を達成する。この3戦でダーリアがアレフランスに最も近づけたのは2馬身半差のオークス(2着)だった。
三冠達成後のアレフランスは1番人気で凱旋門賞に臨むと、先に抜け出したL.ピゴット騎乗のラインゴールドを捕らえられず2着に完敗したものの、ケガの影響で16着に沈んだダーリアには4回目の先着を果たした。アレフランスは次戦の英チャンピオンSでも2着に敗れてシーズンを終えたが、フランスの最優秀3歳牝馬に選出された。
4歳を迎えたアレフランスはクリムシャ師の引退に伴ってA.ペナが新たな管理調教師となり、いよいよ完成の時を迎える。初戦のアルクール賞、続くガネー賞でダーリアを含む相手に完勝すると、さらにイスパーン賞も圧勝。夏場を休養に充てると秋はフォワ賞で4連勝とし、凱旋門賞で前年の雪辱に挑むことになった。ところが、レースを目前に控えて主戦のサンマルタンが落馬して足を骨折。騎乗が危ぶまれる事態になると、ウィルデンシュタイン氏は前年に苦渋を飲まされたピゴットを代役に確保し、騎乗しない場合でもサンマルタンと同じ騎乗手当を保証して囲い込んだ。
それでもサンマルタンはあきらめず、凱旋門賞の発走直前に鎮痛剤を服用してアレフランスの鞍上に収まると、レースでは直線入口から抜け出す積極策でコンテスドロワールの猛追をアタマ差しのいで栄冠を手にした。この年のアレフランスはロンシャン競馬場のみで5戦全勝(G1レース3勝)の記録を残し、フランスの年度代表馬に選出された。
アレフランスは5歳も現役を続行したが、ダーリアらを下して連覇した初戦のガネー賞が最後のG1勝利となった。その後はフォワ賞連覇など2勝を追加したものの、凱旋門賞では5着に終わり、2年ぶりに国外に出た英チャンピオンSも再び2着。さらにアメリカへ遠征するもダートのナショナルチャンピオンシップ招待Hで11着に大敗して現役を退いた。
アレフランスは男勝りと評された見た目とは裏腹に繊細な気性をしており、常に行動を共にしていたスティーブという名の羊が精神の安定に不可欠だったという。そのスティーブはアメリカ遠征に帯同できなかった。
繁殖入りしたアレフランスは5頭の産駒を生むも、勝ち上がりは2頭だけで目立った成績を残せなかった。繁殖牝馬としては4頭のG1ホースを輩出したダーリアに完敗しており、国内外での対照的な競走実績を含む印象が、一度も先着を許さなかった相手とのライバル物語となって今日に伝わる要因となったのかもしれない。