プロフィール
19世紀アメリカの鉄道敷設工事におけるハンマー使いの名手など、さまざまな逸話が伝わる労働者階級の英雄的人物にあやかり名を受けたジョンヘンリー。わずか1100ドルで取り引きされた馬が、当時の世界記録となる生涯獲得賞金659万7947ドルを稼ぎ出し、全米のスターへと成り上がっていく競走生活は「名は体を表す」という言葉通りのものだった。
ジョンヘンリーは30戦6勝の父と未出走の母という血統的な価値の低さに加えて気性も荒く、デビューを待たず去勢された。走ることを宿命づけられた競走生活は、1977年5月の初陣から実質的な最終戦となる1984年10月までの約7年半に及び、その間に83戦して39勝、G1レース16勝は2018年に豪州のウィンクスに抜かれるまで世界最多。年度代表馬2回をはじめエクリプス賞のタイトルを計7回受賞するなど、数々の記録を打ち立てた。
デビュー戦こそ勝利したジョンヘンリーだが、10連敗を喫するなどキャリア序盤の戦績は凡馬のそれでしかなかった。しかし1978年5月に最初の転機が訪れる。新たな馬主のS.ルービン氏に2万5000ドルで買われ、その直後にクレーミングレースで芝に初挑戦すると14馬身差の圧勝。売却条件の3万5000ドルに対して購買希望者は現れず、ルービン氏も二度とクレーミングレースに出走させなくなった。ここからジョンヘンリーは芝で才能を開花させていく。
芝初挑戦から3か月後に12馬身差の圧勝劇で重賞初制覇を飾ったジョンヘンリーは、翌1979年に2度目の転機を迎えた。この年は重賞未勝利ながら西海岸に移籍して芝レースの出走機会を増やし、5歳の1980年についに開眼。重賞8勝(サンルイレイSでのG1初制覇を含むG1レース4勝)で初のエクリプス賞タイトル(最優秀芝牡馬)を獲得すると、続く6歳でダートの2勝を含むG1レース5勝(重賞は計7勝)、世界初の賞金総額100万ドルレースとして創設されたアーリントンミリオンも制し、史上初の満票で年度代表馬(さらに最優秀芝牡馬と最優秀古牡馬)に輝いた。
7歳の1982年は故障で思うような成績を挙げられず、第2回ジャパンCに参戦するも結果は振るわなかった。しかし、ジョンヘンリーというビッグネームの来日は、創設間もない極東のレースを世界に知らしめる大きな後押しとなった。
並みの馬なら年齢的にも下降線をたどっていくところだが、ジョンヘンリーはここから再び立ち上がる。8歳のシーズンは終盤に向かって復調し、3度目の最優秀芝牡馬を受賞。9歳を迎えた1984年にはアーリントンミリオン(この年はバドワイザーミリオン)2勝目などG1レースを4勝し、2度目の年度代表馬と4度目の最優秀芝牡馬に輝いた。
この年は第1回ブリーダーズカップの参戦が期待されるも、地味な血統ゆえに種牡馬登録がなく、参加には40万ドルもの追加登録料が必要だった。一時は出走に傾いたものの、左前肢の靭帯を痛めて実現に至らず、現役を続行した翌年に再び脚部不安を発症。復帰が叶わないまま現役を退くと、功労馬繋養施設のケンタッキーホースパークで余生を過ごした。1990年には競馬殿堂入り。2007年に32歳で大往生を迎えた。