プロフィール
1970年代のアメリカ競馬は三冠全レースをレコード勝ちのセクレタリアト、無敗の三冠馬シアトルスルー、悲劇の名牝ラフィアン、全米各地でG1レース14勝の快足馬スペクタキュラービッドなど、後世に語り継がれる名馬たちがバトンをつなぐように活躍した。フォアゴーも同時代に生きた1頭で、スーパースターたちの中にあって3年連続の年度代表馬に輝く金字塔を打ち立てた。
フォアゴーは1973年1月の明け3歳デビューで、同世代にはセクレタリアトがいた。両雄はケンタッキーダービーで一度だけ対戦し、フォアゴーは怪物同期生の4着に敗れたが、4歳で本格化した事実を踏まえれば、いまだにレコードを破られていない歴史的ダービーの4着も立派な結果。次戦のウィザーズS以降、1977年8月のホイットニーHまでの45戦は、43戦で3着以上と堅実無比に活躍し続けた。しかも31戦はハンデ戦で、そのうち30戦でトップハンデを負担しながら19勝を挙げている。
フォアゴーは走ることが使命のセン馬とはいえ、3歳時だけで実に18戦と使い込まれた。17戦目、11月末のローマーHで初の重賞勝ちを飾ると、4歳3月にはワイドナーHでG1初制覇。続くカーターHでは当時の最速馬にして後の大種牡馬ミスタープロスペクターを破って重賞6連勝とし、競馬界で一目置かれる存在となる。その後にブルックリンH、ウッドワードS、ヴォスバーグH、ジョッキークラブGCとG1レースを4勝。後ろ3レースでは2400m、1400m、3200mとカテゴリーの全く異なる距離で3連勝の離れ業を演じ、年度代表馬と最優秀古馬、最優秀短距離馬の3部門受賞を果たした。
3か月の休養を挟んで迎えた1975年の5歳シーズンは、ワイドナーH連覇など重賞3連勝(前年から6連勝)で幕を開けると、ブルックリンHとウッドワードSを連覇するなどG1レースを4勝し、この年も年度代表馬と最優秀古馬のタイトルを受賞した。ウッドワードS後は負傷により長期休養を余儀なくされ、その間には調教師のS.ウォードが引退。悲劇的な事故でラフィアンを失ったばかりのF.ホワイトリーJr.が新たな調教師となった。
新たな体制のもと、6歳シーズンは5月下旬と始動こそ遅れたが、三度目の正直でメトロポリタンHを制すと、ブルックリンHで3連覇を達成。さらに、この年からハンデ戦となったウッドワードHでは、他馬より最少でも14ポンド(約6.35kg)重い135ポンド(約61.25kg)を課されながらも3連覇を果たす。翌月のマールボロCではさらに約1kg重い137ポンドを負担し、最後の一完歩で執念の勝利。この年もG1レース4勝を挙げ、3年連続の年度代表馬と最優秀古馬に輝いた。
7歳時はG1レース2勝に終わり、年度代表馬のタイトルを逃すことになった。それでも、ウッドワードHでは苦手の不良馬場を克服して4連覇を成し遂げ、最優秀古馬のタイトルも4年連続で獲得した。その後、8歳で2戦したフォアゴーは、5年半の競走生活を通じて悩まされ続けた種子骨の不安が限界に達したため引退。功労馬繋養施設のケンタッキー・ホースパークで余生を過ごしつつ1979年には競馬殿堂入りを果たし、その20年後に放牧中の骨折が原因で生涯を終えた。