プロフィール
5.5ハロンから10ハロンでトラックレコードを計7回も更新(タイを含むと8回)したキャリアから、米史上最強馬に推す声も絶えないスペクタキュラービッド。全米9州の15競馬場で通算30戦26勝を記録し、そのうち11の競馬場でG1を計13勝と、全米をまたにかけて活躍したダート王でもあった。
2歳6月のデビューを控えたスペクタキュラービッドは調教で4ハロン46秒という古馬顔負けの猛時計を叩き出す。その後手綱を任されることになっていたR.フランクリン騎手が「2頭の馬に乗っているよう」とコメントするほどのスピードをみせた。その調教通り初戦を快勝すると2戦目で早くもトラックレコードタイをマークし圧勝。能力の高さを証明してみせた。
重賞初挑戦となった5戦目では、ダート7ハロンを破格の1分20秒8で駆け抜け、2着に15馬身差の圧勝劇。次戦では良血馬ジェネラルアッセンブリーを下してG1初制覇を飾る。2歳時は9戦7勝の成績で、この年のエクリプス賞最優秀2歳牡馬に選出された。
2歳王者として迎えたクラシック戦線ではますます勢いを増し、2月の年明け初戦から圧勝に次ぐ圧勝でケンタッキーダービーに駒を進める。12万5000人の大観衆が詰め掛けた本番では序盤に後れを取るも第3コーナーから一気に進出してそのままゴールし、まずは一冠。続くプリークネスステークスも序盤に置かれ、向正面では外に張り続けられる徹底マークを受けながらも第3コーナーからは独壇場に持ち込んで二冠を達成する。
1977年シアトルスルー、1978年アファームドに続く3年連続の三冠馬誕生に大きな期待が集まったベルモントステークスだったが、ここでアクシデントに見舞われる。スペクタキュラービッドはレース前日に左前肢で安全ピンを踏み、それが蹄の中に留まり跛行してしまったのだ。懸命の治療でレースには出走したものの、猛烈なペースで飛ばし、直線に入ると徐々に失速。2頭にかわされて三冠の夢は潰えた。
その後、蹄が完治したスペクタキュラービッドは、復帰戦を17馬身差、続くマールボロカップでは、ベルモントSの覇者コースタルらを5馬身差と寄せつけずに勝利。実力をみせつけた。そして、ジョッキークラブゴールドカップでアファームドとの対決に臨むが、12ハロンの距離が長かったのか、前年の三冠馬に3/4馬身及ばず惜敗する。この年は二冠が評価され満場一致でエクリプス賞最優秀3歳牡馬を受賞した。
4歳になったスペクタキュラービッドは2月のチャールズH.ストラブステークスでダート10ハロンを1分57秒80で走破し、当時の世界記録を30年ぶりに更新するなど連戦連勝。そして、そのあまりの強さに対戦を避ける陣営が増えはじめ、9月のウッドワードステークスでは、ついにスペクタキュラービッドの単走で施行されることに。そのレースで13度目のG1制覇を飾ったスペクタキュラービッドは、このレースを最後に現役引退。9戦無敗だったこの年は、文句なしの年度代表馬に選出された。
引退後は総額2200万ドルの巨大シンジケートが組まれ、種牡馬入りしたスペクタキュラービッドだったが、期待に応えるほどの活躍馬は残せないまま2003年6月9日に27歳で天寿を全うした。