日本馬の歴史
マルターズスパーブに厚かったG1の壁
1984年の創設当時は画期的な競馬イベントして話題を集め、早々に世界的な影響力を発揮することになったブリーダーズカップ(BC)だが、秋競馬の最盛期を迎える日本と開催時期が重なるタイミング的な問題などあり、これまで日本調教馬の参戦は決して多くない。
ただ、BCフィリー&メアターフには、創設2年目の2000年に早くもマルターズスパーブが挑戦。同年のスプリントに参戦したアグネスワールドとともに、史上3頭目を分け合う日本調教馬としてBC遠征を敢行した。
マルターズスパーブは2歳暮れのデビュー4戦目に未勝利を勝ち上がり、明け3歳初戦でフラワーCに出走。9番人気の低評価を覆して重賞初制覇を飾った。外国産馬だったため当時はクラシック出走資格がなく、春はNHKマイルカップに挑んだものの15着に惨敗。しかし、次戦のラジオたんぱ賞(現在のラジオNIKKEI賞)で2着と巻き返し、ひと夏越したローズSでも2着に好走して秋華賞に駒を進めた。ところが、2度目のG1挑戦で18着とまたしても大敗。ここから中2週での参戦となったBCでも大差の最下位(13着)に沈み、G1の壁に跳ね返され続けた。その後、マルターズスパーブは生まれ故郷のアメリカに1年半余り滞在してレースを続けたものの、重賞ではダート1800mのG3で2着が最高だった。
病に立ち向かったレッドディザイア
2頭目の挑戦は2010年のレッドディザイア。クラシックのタイトルにはわずかに及ばなかったものの、秋華賞ではライバルのブエナビスタに一矢報いてG1ホースとなった。続くジャパンカップでも3着に好走し、歴代3歳牝馬の中でもトップクラスの実績を築き上げたレッドディザイアは、3か月後の4歳初戦をドバイで迎えると、G2マクトゥームチャレンジR3で鮮やかな差し切り勝ちを演じる。当初のドバイシーマクラシックから予定を変更し、勢いに乗って挑戦したドバイWCでは、歴戦の牡馬たちに揉まれ込んで完敗を喫するが、ジャパンカップ以降の戦いで実力が世界レベルにあることを証明した。
走るたびに自身の可能性を広げていったレッドディザイアだが、帰国後にヴィクトリアマイルから宝塚記念に向かう過程で鼻出血を発症してしまう。慢性化の懸念もある厄介な疾患に見舞われたことで、その抑制効果を期待できる薬品(ラシックス)の使用が認められているアメリカ遠征のプランが浮上。BCフィリー&メアターフが秋の最大目標となった。
渡米したレッドディザイアは、前哨戦としてベルモントパーク競馬場のフラワーボウル招待Sに出走。スローペースから一旦は抜け出す態勢に持ち込んだものの、病み上がりもあって伸び切れず3着に終わる。チャーチルダウンズ競馬場に移動して迎えた本番では、中団で大本命のミッデイをピタリとマークし、最終コーナーでは外からライバルを押し込んで直線に先んじた。そこから横一線の叩き合いに発展する中で抜け出すかの大きな見せ場を作ったが、最内をすくった伏兵シェアドアカウントと馬群を割ってきたミッデイの底力に屈し、最後は外からもかわされて惜しくも4着に終わっている。
年 | 馬名 | 性齢 | 着順 | 騎手 | 調教師 |
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2000 | マルターズスパーブ | 牝3 | 13 | 武豊 | 堀井雅広 |
2010 | レッドディザイア | 牝4 | 4 | K.デザーモ | 松永幹夫 |