日本馬挑戦の歴史
未開の地アメリカ 手探り状態の中で意義深いラニの3冠踏破
砂主体の日本のそれとは質の異なるアメリカのダート戦は日本調教馬の出走数自体が少なく、ベルモントステークスには2016年、つまり昨年のラニしか参戦例がない。ベルモントSを含む米牡馬クラシック3冠戦に対象を広げても、1995年のケンタッキーダービーに挑戦したスキーキャプテン、本番出走は叶わなかったものの前哨戦を制した2008年のカジノドライヴしかおらず、日本調教馬にとってまだまだ未開の面が残された難関といえる。
スキーキャプテンは母にスキーゴーグル(1983年G1エイコーンステークス)、姉にはスキーパラダイス(1994年G1ムーランドロンシャン賞)を持つ良血外国産馬。姉のスキーパラダイスは1993年に仏1000ギニーはじめG1で2着5回、1994年には来日して京王杯スプリングカップを快勝し、夏のムーランドロンシャン賞で悲願のG1制覇を果たしている。手綱を取った武豊騎手も日本人騎手として初の海外G1勝利だったため、フランス調教馬ながら日本の競馬ファンの間で認知度が高かった。
そうした“身内の快挙”がデビュー直前に重なった弟への注目は当然のように高く、それに応えるようにスキーキャプテンも2連勝。無敗で駒を進めた朝日杯3歳ステークス(当時)は猛追及ばずフジキセキにクビ差の惜敗を喫したものの、年明けのきさらぎ賞を圧勝して改めて素質の高さを証明し、アメリカへ旅立つことになった。
ただ、きさらぎ賞後の一頓挫で調整に狂いが生じたうえ、指定レースによるポイント制で出走資格を与えられる現在とは異なり、アメリカでの出走歴がないスキーキャプテンはケンタッキーダービーのゲートに入れるかも判然としない中での渡航。フルゲート割れもあって出走は叶ったが、海外遠征やダート戦など初物尽くしの状況で3か月ぶりのぶっつけ本番になった負担はあまりに大きく、後方追走のまま14着に沈んだ。
スキーキャプテンの挑戦後にドバイのUAEダービーが創設。日本調教馬にとって海外ダート重賞への入門的な地位が築かれ、より難易度の高い米3冠戦にチャレンジする馬はなかなか現れなかった。しかし、2008年にカジノドライヴが渡米。半兄ジャジル(2006年)、半姉ラグズトゥリッチズ(2007年)に続くベルモントS 優勝を目標に掲げ、まずは前哨戦のG2ピーターパンステークスを圧勝した。これが日本調教馬による初の米ダート重賞勝利であり、血統に違わぬスケールの大きさから期待も高まったが、本番直前に挫石のアクシデントに見舞われ無念の回避。戦わずして夢破れた。
パイオニア故の模索状態だったスキーキャプテン、前哨戦から臨んで成果を挙げたもののゲートにはたどり着けなかったカジノドライヴと対照的なプロセスを経た両雄に対し、2016年のラニはUAEダービー制覇によってダート適性を証明し、ポイント制のケンタッキーダービー出走資格も確保しての遠征。ドバイから直接、現地入りしてプリークネスステークス、そしてベルモントSまで踏破する前代未聞のチャレンジを敢行した。
初戦のケンタッキーダービーは長距離輸送のダメージから回復途上の状態で迎えた不利もあり9着と完敗したが、2冠目のプリークネスSでは5着へと前進する。プリークネスSの前にはベルモントパーク競馬場に馬房を借り、滞在調整を進められたおかげで徐々に体調も上昇。迎えた3冠目のベルモントSではついに持ち味の末脚を爆発させる。芦毛の馬体を揺らして大外から猛然と追い上げる姿には、現地の実況アナウンサーも「Here Comes LANI!!(ラニが来たぞ!)」と絶叫。勝ち馬から約1馬身半差の3着と大きな見せ場を作り、米国クラシック競走入着という歴史的成果を挙げた。
ケンタッキーダービー
年 | 馬名 | 性齢 | 着順 | 騎手 | 調教師 |
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1995 | スキーキャプテン | 牡3 | 14 | 武豊 | 森秀行 |
2016 | ラニ | 牡3 | 9 | 武豊 | 松永幹夫 |
プリークネスステークス
年 | 馬名 | 性齢 | 着順 | 騎手 | 調教師 |
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2016 | ラニ | 牡3 | 5 | 武豊 | 松永幹夫 |
ベルモントステークス
年 | 馬名 | 性齢 | 着順 | 騎手 | 調教師 |
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2016 | ラニ | 牡3 | 3 | 武豊 | 松永幹夫 |