日本馬挑戦の歴史
前人未踏の領域に挑んだ芦毛の2頭
本場アメリカのダート競馬に挑戦した日本調教馬は、海外遠征が定着した現在でも決して多いとは言えず、重賞もダートでは1勝(2008年ピーターパンステークスのカジノドライヴ)に留まっている。近年はドバイワールドカップで毎年のようにダート戦に挑んでいるものの、芝レースと比較して後れを取っている感は否めない。
このように、日本調教馬にとって高い壁であり続けている国際級のダート戦だが、ケンタッキーダービーへの初挑戦は、海外遠征がまだめずらしかった1995年に早くも敢行された。第1回ドバイWC(1996年)、フェブラリーステークスのG1昇格(1997年)に先立つ未知の領域でノウハウも確立されておらず、結果を求めるのは酷な時代だったといえる。
パイオニアとして名乗りを挙げたのはスキーキャプテン。デビュー2連勝から臨んだ朝日杯3歳ステークス(現在の朝日杯フューチュリティステークス)で、後に幻の三冠馬と謳われるフジキセキを急襲してクビ差2着と、名種牡馬の父ストームバード、コーチングクラブアメリカンオークス馬の母スキーゴーグルから受け継いだ豊かな素質を裏づけた。さらに年明けのきさらぎ賞を圧勝してさらに評価を高めたが、その後に蹄を痛めてぶっつけ本番の渡米を余儀なくされる。出走希望馬がフルゲートの20頭を超えれば除外されるリスクもあったため、出発はギリギリのタイミングとなった。
幸い19頭立てに収まり、晴れて日本調教馬初のケンタッキーダービー出走となったスキーキャプテンだが、レースでは外目の17番枠から発馬で1馬身ほど出遅れてしまう。1頭だけ目立つ白い馬体は後方2番手付近から馬群に懸命に食らいついていったが、本場のスピードについていくのが精一杯。隣の16番枠から先頭でゴールしたサンダーガルチに後れること約10馬身差の14着でチャレンジを終えた。
スキーキャプテンが道を拓いたものの、それに続く挑戦者が現れることはなく、2016年のラニまで21年もの空白期間が生じた。時代は変わり、ケンタッキーダービーに出走するためのポイント制が採用されていたが、ラニはドバイのUAEダービーで日本馬初勝利の快挙を成し遂げ、それと同時に必要点数もクリア。ドバイから直接アメリカ入りする異例の旅程で決戦の地・チャーチルダウンズ競馬場に乗り込んだ。
ラニは20頭立ての8番と好枠に恵まれて五分のスタートを決めたものの、課題としていた二の脚の差で早々に置かれ、スキーキャプテンと同様に後方から馬群を追い掛ける展開。しかし、徐々にリズムをつかんで中間点からスピードに乗り、直線では大外から懸命に末脚を伸ばした。結果として、上位争いに絡むことはできず9着に完敗したが、最後まで力強い脚勢を維持。そのまま三冠戦の踏破に挑むと、最終戦のベルモントステークスでは3着という大きな成果を生むことになった。
年 | 馬名 | 性齢 | 着順 | 騎手 | 調教師 |
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2016 | ラニ | 牡3 | 9 | 武豊 | 松永幹夫 |
1995 | スキーキャプテン | 牡3 | 14 | 武豊 | 森秀行 |