04/11 13:00
東海岸のKYダービー前哨戦、G2ウッドメモリアルSはモードニゴールが差し切り
プロフィール
わずか1万7500ドル(約518万円=1975年当時の為替レート)で取り引きされた安馬が、やがて史上初となる無敗でのクラシック三冠を成し遂げ、種牡馬としても大成功──競馬界におけるアメリカンドリームの体現者はシアトルスルーを置いてほかにいないだろう。
シアトルスルーが秘める能力の一端を発露させたのは、デビュー3戦目のG1シャンペンSだった。ダート8ハロンで2歳馬史上最速の1分34秒4を叩き出し、9馬身余りの大差で圧勝。3戦3勝でエクリプス賞最優秀2歳牡馬のタイトルを手にする。
シアトルスルーは約5か月の休養から3月上旬に3歳初戦を迎え、G1レース2つを含む3連勝でいよいよ三冠戦へ突入。圧倒的人気で迎えたケンタッキーダービーでは課題だったゲートに失敗して2馬身ほど出遅れてしまうが、幸運にもスペースが開けて1コーナーで先頭に並ぶことができ、そのまま横綱相撲でダービーの栄冠をもぎ取った。
2冠目のプリークネスSは猛烈なハイペースで並走馬を蹴散らして完勝する一方、そのスピードによって最終関門のベルモントSでは距離不安が取り沙汰される。しかし、シアトルスルーは素早くハナに立ってスローペースに落とすと、徐々にピッチを上げる戦略で主導権を渡さず、無敗の9連勝でついに三冠を達成した。
米国競馬初の金字塔を打ち立てたシアトルスルーだが、次戦のスワップスSでまさかの黒星を喫してしまう。5週で3戦の過酷な三冠戦を終えたばかりにもかかわらず、その3週後に東海岸から西海岸への遠征を敢行した結果だった。これで体調不良に陥ったシアトルスルーは休養に入り、さらには転厩して体制の一新が図られることになる。
シアトルスルーが4歳を迎えた1978年にはアファームドも三冠を達成。9月のマールボロCと1か月後のジョッキークラブゴールドCで2度の対戦が実現したが、三冠馬対決はいずれもシアトルスルーが先着した。その後、G3のハンデ戦を勝ったのを最後に引退したシアトルスルーは、1984年のリーディングサイアーに輝くなど種牡馬としても大成功。息子のエーピーインディ、ひ孫に当たるタピットもリーディングサイアーになるなど、今なお競馬界に大きな影響力を与え続けている。
生年 | 1974 |
---|---|
性別 | 牡 |
毛色 | 黒鹿毛 |
父 | Bold Reasoning |
母 | My Charmer |
母父 | Poker |
調教師 | D.ピーターソン |
生産者 | Ben S. Castleman |
馬主 | Tayhill Stable |
通算成績 | 17戦14勝[14-2-0-1] |
距離 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 出走回数 | 勝率 | 連対率 | 3着内率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
~1400m | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | 100% | 100% | 100% |
1401m~1800m | 5 | 1 | 0 | 0 | 6 | 83% | 100% | 100% |
1801m~2100m | 3 | 0 | 0 | 1 | 4 | 75% | 75% | 75% |
2101m~ | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 50% | 100% | 100% |
馬場状態 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 出走回数 | 勝率 | 連対率 | 3着内率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
良馬場 | 11 | 1 | 0 | 1 | 13 | 85% | 92% | 92% |
稍重馬場 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0% | 0% | 0% |
重馬場 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 100% | 100% | 100% |
不良馬場 | 2 | 1 | 0 | 0 | 3 | 67% | 100% | 100% |