日本馬挑戦の歴史
初挑戦で手応えつかむも凱旋門賞は遠く……
日本調教馬として凱旋門賞に初挑戦したのは1969年のスピードシンボリ。しかし、その前哨戦であるフォワ賞への挑戦者としては、17年後の1986年、シリウスシンボリが初めてとなる。シリウスシンボリは日本ダービー制覇後に欧州へわたり、2年近く長期滞在して各地を転戦。帰国までに10戦以上して勝利には至らなかったものの、滞在1年余りを経て挑んだフォワ賞で2着と唯一の連対を果たしている。ただ、その勢いで臨んだ凱旋門賞では、優勝馬ダンシングブレーヴら当時最高と呼ばれた強豪たちに跳ね返された。
それから11年後の1997年に、サクラローレルが2頭目の日本調教馬として出走。故障がちで大成は遅れたものの、前年には年度代表馬に輝くなど十分な実績、欧州中・長距離路線で多数の活躍馬を輩出していたレインボークエスト産駒という血統的魅力を併せ持ち、大きな期待を集めていた。しかし、レース中に負傷してよもやの最下位。屈腱不全断裂の深手を負い、目標としていた凱旋門賞出走も叶わず引退を余儀なくされた。
勝機到来、エルコンドルパサーの飛翔
1999年のエルコンドルパサーは過去に挑戦した2頭にも増して説得力のある実績の持ち主。同年春からフランスに滞在し、G1イスパーン賞2着、G1サンクルー大賞優勝と大きな成果を挙げ、フォワ賞出走の頃には欧州でも屈指の高評価を得ていた。わずか3頭立てとなったレースは、エルコンドルパサーが先頭でマークを受けて立つも、直線入口で内から体半分ほどかわされる苦しい形勢となった。しかし、素早く巻き返して馬体を併せてからは、懸命に追う相手を見せ鞭程度でねじ伏せ、短クビの着差以上の内容で日本馬によるフォワ賞初勝利を挙げる。迎えた凱旋門賞では前哨戦での経験を生かすかのように再び隊列を先導。直線で大きく抜け出し勝利を予感させたが、モンジューの豪脚に惜しくも半馬身屈した。
その後、フォワ賞に出走する日本調教馬は途絶えたが、11年後の2010年にエルコンドルパサーと同じ二ノ宮敬宇調教師と蛯名正義騎手のコンビが、ナカヤマフェスタを擁して再挑戦。直線の追いくらべで後れを取ったものの、3/4馬身差の2着と遠征初戦としては上々の内容を残した。迎えた凱旋門賞では残り300mから英ダービー馬ワークフォースとの一騎打ち。またしても2着と惜敗したものの、わずかにアタマ差と、さらに勝利へ近づいた。
勝って当然、日本馬の地位を固めたオルフェーヴルの連覇
ナカヤマフェスタは2011年もフォワ賞から凱旋門賞を目指したものの前年を上回ることはできず、ともに挑んだヒルノダムールがフォワ賞で激闘の末に短クビ差2着。エルコンドルパサーやナカヤマフェスタの例から凱旋門賞での好走に期待が高まった。しかし、そのフォワ賞でピークを迎えていたことが後日明らかになり、本番では10着と見せ場を作るには至らなかった。
日本調教馬のフォワ賞出走において、ここまでのハイライトと呼べるのは2012年と2013年のオルフェーヴルだろう。すでに日本馬の実力は欧州にとどろき、クラシック3冠馬の金看板を背負っていたオルフェーヴルは、遠征初戦のフォワ賞でも圧倒的1番人気。上がり勝負を1馬身差で制すと、凱旋門賞では大外一気に突き抜け圧勝のシーンを演出する。しかし、ゴール寸前で急失速。まるで勝利を捨て去るかのように2番手でゴールを迎えた。再挑戦の2013年もフォワ賞では不動の人気。今度は3馬身差の完勝を収め、本番へ一段と期待を高めたが、女傑トレヴの驚異的な末脚の前にまたしても2着と涙を飲んだ。
フォワ賞
年 | 馬名 | 性齢 | 着順 | 騎手 | 調教師 |
---|---|---|---|---|---|
1986 | シリウスシンボリ | 牡4 | 2 | M.フィリペロン | 二本柳俊夫 |
1997 | サクラローレル | 牡6 | 8 | 武豊 | 小島太 |
1999 | エルコンドルパサー | 牡4 | 1 | 蛯名正義 | 二ノ宮敬宇 |
2010 | ナカヤマフェスタ | 牡4 | 2 | 蛯名正義 | 二ノ宮敬宇 |
2011 | ナカヤマフェスタ | 牡5 | 4 | 蛯名正義 | 二ノ宮敬宇 |
2011 | ヒルノダムール | 牡4 | 2 | 藤田伸二 | 昆貢 |
2012 | オルフェーヴル | 牡4 | 1 | C.スミヨン | 池江泰寿 |
2013 | オルフェーヴル | 牡5 | 1 | C.スミヨン | 池江泰寿 |