日本馬挑戦の歴史
日本競馬を彩った名馬と名手たちのチャレンジ
欧州の上半期を締めくくる大一番、キングジョージ6世&エリザベスステークスに参戦するには当然のように馬自身の格というものが必要になる。これまで日本から参戦した5頭はクラシックホース3頭に有馬記念の覇者2頭と、時代を代表する名馬ばかり。そして、その背にいたのは野平雄二をはじめ岡部幸雄、武豊など、一時代を築き上げた名騎手ばかりだった。
1969年に初参戦を果たしたスピードシンボリは、日本馬としての欧州遠征も障害馬のフジノオーに次ぐ2頭目と、まさにパイオニアと呼ぶべき貴重な一歩を記すことになった。4歳(当時の馬齢表記では5歳)時に天皇賞(春)で現在のG1級初制覇を飾り、その秋にはアメリカ遠征も敢行。6歳を迎えて今度は英仏遠征に打って出た。
ただ、ノウハウが蓄積された現在でも簡単とは言えない海外遠征にあって、スピードシンボリはいきなり洗礼を浴びる。実戦に備えて1か月前に出国するも、輸送の経由地であるパリでストライキに巻き込まれて3日間の足止め。ようやく到着した現地では熱発し、戦前から大きなハンデを背負うことになった。
それでも、スピードシンボリは当時の日本最強に恥じない見事な走りを披露する。ゲートを決めると鞍上の野平雄二と息も合い、最終コーナーまで2番手をキープ。直線の残り2ハロンでは先頭に立つ大きな見せ場を作る。その刹那に最後方からラチ沿いを駆け上がったL.ピゴット騎乗の優勝馬パークトップにかわされてしまうが、10馬身差ほどの5着に粘走。時代性を鑑みれば、驚くべきパフォーマンスだった。
2頭目の挑戦者もシンボリ牧場生産のシリウスシンボリだった。晩生の先輩とは異なり日本ダービーを制した直後の1985年から2年に及ぶ欧州遠征を決行。鞍上に皇帝シンボリルドルフとのコンビで名を馳せていた岡部幸雄を迎え、キングジョージ6世&エリザベスSで長期滞在の初戦を迎えた。しかし、ゲートで後手に回ると不利も重なり、最後方に下げられる苦しい追走。直線には後方2番手で入り、8番手でのゴールとなった。
2000年には皐月賞と菊花賞を制し、ダービーでは惜敗という“準三冠馬”のエアシャカールが遠征。ダービー直後の参戦で菊花賞の結果は帰国後に明らかになることだが、シリウスシンボリに優るとも劣らない素材だった。しかし、その行く手には前年の凱旋門賞でエルコンドルパサーの夢を打ち砕いたモンジューが立ちはだかる。最後方で直前のモンジューをマークしたエアシャカールは、最終コーナーから馬体を併せようと挑みかかるも、鞍上の武豊が振るう渾身のステッキも不発。軽い気合いづけだけのモンジューに突き放されて5着に終わった。
そして、日本調教馬で歴代最高の結果を残したのが2006年のハーツクライだ。前年暮れの有馬記念でディープインパクトを完封。若きC.ルメールとのコンビで一躍名を挙げると、ドバイシーマクラシックも圧勝して陣営からキングジョージ6世&エリザベスS参戦が宣言された。
下馬評は凱旋門賞などG1レース3勝のハリケーンラン、ハーツクライと同日にドバイワールドカップを勝ち、前年には日本のゼンノロブロイを抑えて英インターナショナルステークスも制しているエレクトロキューショニストによる3強対決。そして、実戦でも期待に違わぬ激闘が繰り広げられることになる。
序盤は2番手追走のハリケーンランを背後でハーツクライとエレクトロキューショニストがマーク。エレクトロキューショニストが最終コーナーを前に2番手に上がり、ハーツクライがその動きに応じて前へ進出し直線に突入。ハリケーンランは2頭の動きに後れを取って内に閉じ込められ、スムーズに加速したハーツクライが残り1ハロンを前に体半分ほど先頭に出る。エレクトロキューショニストも負けじと食い下がり、さらに内からハリケーンランが巻き返し。残り100ヤードで3頭一線に並ぶと最後はハリケーンランに軍配が上がった。ハーツクライは1馬身差の3着に屈したものの、この死闘はレース史に残る名勝負として称賛を集めた。
2012年にはディープブリランテがダービー馬としてシリウスシンボリ以来となる挑戦を果たす。外目のゲートを引いたディープブリランテは、中盤までドイツの牝馬デインドリームと5番手を並走。直線手前ではデインドリームと1馬身ほどの差で、地方から中央に移籍して大成功を収めた岩田康誠の剛腕に促されて追撃態勢に入った。しかし、直線ではデインドリームに突き放される一方となり、シリウスシンボリと同様に8番手でレースを終えた。